「故郷が分からない」朝鮮で生まれ育った日本人女性が親からもらった教訓

家族写真 80代・90代にとっての家族

「あなたにとっての家族とは?」

様々な「家族観」に触れることで自分の「家族観」を見つけていく家族観バトン

今回はおすみさんからバトンを繋いでいただき、94歳のN.Y.さんにインタビューをさせていただきました。

小学生時代の同級生の名前を全員覚えているなど、驚くほどの記憶力をお持ちで、よどみなくしっかりと、そして丁寧にお話しいただき、その人柄と育ちの良さが溢れ出ておられました。

また時には「18歳で結婚しちゃった!」と茶目っ気たっぷりに言い放つチャーミングな一面も。

家族に関するインタビューですが、戦前の朝鮮でお生まれになり引き揚げまでの生活の様子をたくさんお話しいただきましたので、お人柄が出ている話し言葉と合わせてできるだけ再現しました。

家族の物語から見えてくる貴重な歴史的背景にも注目してご一読ください。

プロフィール

名前:N.Y.
年齢:94歳
出生地:朝鮮

朝鮮での暮らし、家族のこと

朝鮮での素晴らしい家庭環境

小さい頃は素晴らしい家庭環境だったと思います。

朝鮮で生まれ育って、朝鮮人の真っ只中にいるんですけれど、日本人の社会というものが出来上がっていて、朝鮮人とははっきり隔絶されていました。

だから直接、朝鮮の方と関わることはなくて、生活の中では、日本語で日本人だけの生活。

しかも父が京城帝国大学に勤めていましたから、大学という一つの社会の中での生活でした。

戦前の帝国大学は、北海道、東北、東京、京都、大阪、名古屋、九州、それに朝鮮の京城と台湾の台北帝大と、9つあったんです。今はかつての国立帝大は7つですけれどね。

非常に高いものを目指して設立されていましたから、建物も立派でしたし、戦後に文部大臣もされた安倍能成先生が京城帝大の教授でした。

そういう形で非常に教授陣はしっかりしていて、それだけに教育程度も高いと言われていたので日本人として一つの誇りを持っていました。

そこに父は創立から関わって、終戦の昭和20年までの35年間、京城帝大医学部解剖学の教授をしていました。
当時まだ父は30代、母は20代でしたかね。

助教授は日本の方、それから助手には日本の方と朝鮮の方もおられました。
その中で父が、非常に内政に通じていて第1級の人物だと言っていたのは、朝鮮の昔からの「ヤンバン」の方でしたね。

「ヤンバン」は両班と書くんですけど、私たちはお金持ちという意味で使っていました。普通の日本人で考えられるようなお金持ちと桁が違うんですね。

父が一度そこの家に招かれて行ってびっくりしてましたけど、朝鮮の昔の儒教の流れがありますから、朝鮮人の家庭の両班の主人というのはすごく偉い。威厳がありましてね、立派な人が多かったんです。

そういう人たちが父の弟子として来ていましたから、ほんとに生半可な日本人では追いつけないほど威厳のある素晴らしい人たちがいました。

京城帝国大学というのはほんとに素晴らしいところでした。

私なんか横で見ていただけですけど、その官舎に住んでましたから、周りにそういう先生方がおられましてね、ほんとに環境としては素晴らしく良かったんです。

小学校生活のこと

私は京城の学習院と言われていた京城師範付属単級小学校に入りました。ある程度限られた人たちの学校だったので、入学試験がありましてね。一学年が10名というのが原則なんです。

当時、内地ではまだ珍しかった皮のランドセルで通学しました。女の子は茶色、男の子は黒でした。

今でも同級生の名前ははっきり覚えています。

女の子は、たかはしまりこ、くるまだのぶこ、はしもときょうこ、つだひさこ、かとうさだこ、いそべかずこ、まつばやしはるえ、そして私の8人。

男の子が、いわしまひさお、たかさきひろし、ながたかつひこ、さかいただし、からさわしげみ、なかじまのぶおの6人。

今でも覚えてるぐらい、カチっとかたまっていたんです。

先生は上田槌五郎先生でした。後で知ったんですが、父の教え子でした。

1年生で入学すると、「お連れ」といって6年生のお姉さんが一人ずつ付いてくれるんです。入学したばかりの子たちの先導をするためにね。

それこそお手洗いに行くときは連れていってくれて、外でちゃんと待っててくださる。
学校から帰るときには荷物を整理するのを横に来て手伝ってくださる。
歩いて遠足に行くときは手をつないで、お姉さんなりお兄さんなりみんな付いてくれて、そういうとても上下をピシっと結びつけるような教育を受けてるんです。

先生が同じ教室で、午前中は1年生2年生に教えるんですけれど、その時、5年生6年生はみんなそれぞれ自分たちで算数の計算なんかをしてるんです。

午後から先生が上級生の方に回って来られた時に、黒板のところで説明してという、そういう勉強の仕方。自学自習みたいな勉強の仕方も習ってきてるんです。

ちょっと普通の小学校とは違った教育を受けましてね。

私は一番上の長女、それから妹2人と弟2人の5人姉弟で育ちました。その当時は5人姉弟は当たり前だったんです。

小学校へ行きますと、みんな同じ小学校に来られますから、5人姉弟の誰それさんと、それぞれの妹同士弟同士がみんな友達になっていました。

学年を超えて上下、それから横の関係もしっかり結びついていて、日本に引き揚げてきてから50年ほど、ずっとその繋がりがありました。今、私自身は、小学校のときの一人と女学校のときの一人と80年のお付き合い、今でも続いてはいるんです。ただみんな次々亡くなりまして…。

10年ほど前に東京まで同窓会に行きました。主人が亡くなってやっと行けたんです。

そういう楽しい思い出はありますけど、それだけに一般の朝鮮の方と付き合わなかったという、一つの寂しさというか後悔というか、がありますね。

「故郷」が分からない

父と母が結婚して朝鮮に行って、すでに日本人の社会というのが出来上がりつつあって、そこで私は生まれました。

大学ばかりではなくて、それに伴って小学校中学校と建てられましたからね。父の友人もみんな日本から来られて、そしてそこに根を下ろされてたんです。
だからどうしてもこう朝鮮の方と一緒に、というのはなかなか。日本人は日本人の社会という生活でしたね。

父から聞きましたが、朝鮮で勲一等の勲章をもらっているのは4人しかいない。

まず朝鮮総督。総督の下の政務次官、それから軍司令官、大学総長。この4人が勲一等でね。いわば朝鮮植民地でのトップに立つ方だったんです。

だいたい総督には軍人が就いてます。一番最初が寺内正毅さん、その後ずっと陸軍大将が次々と来られて、私たちが子どもの頃は南次郎さんでしたね。その次に小磯さんでしたかね。小磯さんは終戦間際に総理大臣になられて朝鮮から引き揚げられましたけど。そういう風にして完全に日本人社会だったんです。

だけど、その朝鮮が故郷(ふるさと)とは思ってなかったんですよ。やはり朝鮮というところへ私たちは踏み込んでいるという気持ちがありました。植民地とは思ってなかったんですけど。

「兎追ひし かの山…」という故郷の歌を習ったときには、「私たちの故郷はどこだろう」と。

やっぱり友達も後になって言っていました。

故郷が分からない。

結局、今でも故郷探しをしているような感じです。

女中のいる裕福な暮らし

当時は職業をもっている家庭婦人というのはほとんどなかったので、母も専業主婦でした。

特に大学関係はみんな奥様という形でして、それなりに婦人同士の交流やなんかがあって、そういう忙しさはあったみたいです。

ですから私なんかもそういう大学の先生方のご家庭とは付き合いがありました。

大企業で内地から赴任して来られている方たちの集まりもあったし、それから女学校同士の同窓会のお付き合いとか、男性の方は大学とか高校、仕事なんかの集まり、色々なグループがあって、それぞれにお付き合いがありました。

あの川島軍司令官の夫人が母の夕陽丘高等女学校の同窓生だったものですから、そっちのお付き合いもあったり。

当時の大学教授というのは非常に裕福でした。うちは特に財産もなかったですけれど、女中を使っていて、子どもたちの洋服は三越で別誂えにするということもありましたからね。

だから随分裕福でしたね。私たちは周りもそうでしたから当たり前と思ってたんですけど。

今はお手伝いさんという言い方してますけど、私たちのときには女中は「ねえや」という言い方でね。

羽仁もと子さんあたりの提唱だったと思うんですけれど、「ねえや」という呼び方はいけない、名前を呼びましょうということになって、「さちえ」とか名前で呼んでいました。
貧しい家庭から行儀作法を学びに来ていたようです。
女中は日本人でしたけど、朝鮮人がたまに来ることもありました。

その人のことはオモニと言っていました。オモニは、私にとって印象の強い朝鮮人です。オモニはすごく働き者でしたね。

オモニは、白い木綿のチマチョゴリという朝鮮服を着ているんです。洗濯物を頭に乗せて、ぞろぞろと5人6人ぐらい川岸を降りていくわけ。川でかまどに火を炊いて洗濯物を煮沸消毒しながら、お喋りしながらゴシゴシ川で洗ってるの。

その姿をよく見かけました。

私たち日本人は、朝鮮人の子どもを遠目に見るだけで一緒に遊ばなかったんです。

朝鮮人の男の子はチョンガって言うんですが、輪回しっていうのかな、丸い鉄を回す、そんな遊びをしていました。

女の子のことはキチべと言いました。女の子たちは板飛びというのかな、長い板を渡して飛んだりする遊びをしているのを見かけました。

私自身は、ままごと遊びや、小学校へ入ってからは鬼ごっこ、かくれんぼ、あとドッチボールね。

別の学校では小学校3年生ぐらいから男女を分けてたらしいですけれど、私の小学校は男女一緒でした。かくれんぼのときはいつも男の子と手を繋いで走ってました。

女学校のこと

小学校を卒業して現在でいうところの中学校にあたる女学校に入りました。女学校は京城の第一公立高等女学校、略して第一って言ってましたけれどね。5年間です。

その校則に「男子を交えたる会合に出席せざること」というのがあったんです。

女学校に入った時、最高の女学校に入ったつもりだったんですけれど、もうこの校則にはショックでしたね。悲しかった。

男の子と話をしてもいけないってなったら、それまであんまり自由にしてたから、ちょっと五月病みたいなのになっちゃって。小学校時代、男の子と仲良く遊んでましたから、悲しかったです。

それで、女学校卒業した途端にすぐ同窓会やったんです、男女交えて 笑。

女学校は朝鮮の人は入ることができない、日本人ばかりの女学校でした。

朝鮮人の女学校と別々でしたからね。
たまに一人ぐらい入ってこられるけど、最優秀の女性でしたね。私の学年にはそういう方はなかったから、お付き合いしてませんけど。

だから結局、朝鮮人とは接点がなくって。

でも、大学は半々でしたから、主人なんかは朝鮮人の同級生との付き合いがあったみたいです。

ご両親の馴れ初め

父は東大阪の生まれです、生駒山の。
そして中学校は大阪の八尾中学でした。

そのときの漢文の先生が非常に父を可愛がってくださって。
父は大学に行ってからも自分の家に帰る前に必ず大阪のその先生のところへ寄っていたんです。

その先生には子どもが無くて、丹波の福知山の姪を呼び寄せたんです。それがうちの母なんです。

母は、叔父さんに言われて大阪まで来て。夕陽丘高等女学校といってなかなか難しかったらしいんですけど、丹波の田舎から出てきた子が試験を受けさせられて、通っちゃったんです。

父の方は休みになると、母の叔父に当たる先生のところへ来て、母は父から数学なんかを教わっていたらしいんです。

父と母と11歳も歳が違う。ですから母は父のことを偉い先生のように思っていて、父の方も小さな女の子ぐらいに思ったりしていたんですけど。
そのうち、ずっと通ってくるうちに、ね。

父が、母と結婚したいと先生に言ったら、「まだうちのテルにはそれほどの教育はしてない。君はこれからますます上にいくんだから、それはテルでは無理だろう」と、そういう判断をしたらしいんですけど、父の方はもう母に夢中になって。

当時、父は大学の助手で給料が少なかったので「ちゃんと稼げるまで待っててくれますか」と求婚したんです。

明治の末に恋愛結婚なんて珍しかったでしょうね。

今みたいに色々なものが交錯していた時代じゃないから、明治20年生まれの父と、明治32年生まれの母で大変なことだったと思います。

父と母が結婚して、京城帝国大学ができるので教授に、と言われたので、父は母を連れて玄界灘を船で渡ったわけなんですよ。大正8年のことでした。

そして京城で、私が生まれて、妹弟が生まれて。

父と母の恋愛話は母からさんざん聞かされて。もう子どもたちの頭に染み付いているんです。

だから恋愛はすごくいいんだって。母はもうずっと父に惚れ込んでましたからね。「あんな素晴らしい人はいない」とべた惚れでした。

そんな中で育って、だから父と母が仲が良いというのが当たり前でした。夫婦喧嘩がどんなものか知らなかった。見たことがない。

だから、父と母がちょっとの意見の違いで二人でやりあってると、妹二人が「お父様とお母様が喧嘩してる!」ってダーッと飛んで行って見学してました 笑。

戦時中と戦後の生活

朝鮮の人たちの態度の変化

昭和20年8月15日、日本が戦争に負けました。私は18歳でした。

戦争に負けるというのは直前まで知りませんでした。

日本が押され気味になっていることは十分承知していたし、内地は空襲で大変だということを知っていたけれど。

朝鮮は比較的、物は豊かだったし、空襲はないし。

8月に原子爆弾が落ちた時、父が畑仕事をしていて、私もそれを手伝ってましてね。「大型爆弾が落ちたらしい、大変なことになるな」って。「こんなのんきにしておられなくなるかもしれないぞ」ってことは父が言ってましたね。

もしかしたら京城にそういうのが来るかも知れない、というように言われました。

ソ連が参戦して北鮮のほうへ入り始めた、これは南へ逃げなきゃいけないかもしれないから荷物を少しまとめなきゃいけない、そういう気持ちはありましたけどね。ただ徹底的に負けるっていう感じはなかった。

おそらく朝鮮の人たちは日本が負けるということは聞いていたと思うんですけど、敗戦ということになった途端に、朝鮮の国旗・太極旗が一斉に出て。

侮辱した言い方で日本人のことをチョッパリと言うんですけど、「日本に帰れー!チョッパリー!」って言うわけ。

敗戦後、途端に態度がころっと変わりましたね。

暴力はなかったですけれど、その直後、妹は女学校から帰る電車に乗せてもらえなくて泣きながら歩いて帰ってきていました。それほど街は大変な騒ぎになっていて。

どこでどういう風にして太極旗を用意していたのか、朝鮮の人たちはじーっと家庭でそれだけの下準備をしてたんでしょうね。

当時の私と同じぐらいの人が、家庭でどういう風に教わっていたのかそれを知りたいなと思うんだけれど、そういうつながりもなく、分からずじまいです。

大学では父が最後の医学部長でしたんで、「こういう風になって、しかし必ずまた日本と朝鮮とは繋がっていくであろう」という風に言って最後の別れの挨拶をしたそうで、その時、主人もいたんですけどね。
朝鮮人の学生が寄ってきて手を握って、「戦争は終わりましたが、これからが大変です、お互いに頑張りましょう」と励まし合って別れたということを言っていました。

だけど別の学校では、「日本人出ていけー!」と日本人だけ校庭に並ばされて往復ビンタだったという話も聞いています。だからそれぞれの学校、立場やなんかの在り方によって違ったんでしょうね。

「結婚しちゃった」~終戦直前に結婚

夫婦写真

私は昭和19年に女学校を卒業しました。そして父の研究室で秘書を勤めていたんです。

戦争が始まると、お米などが配給制度になって貰いに行かなきゃ食べるものがないの。
でもうちの母は一人でその配給物を取りに行くことができない。

今思えばちょうど更年期に当たっていたのと、それまでは女中を使って重たいものを運んでもらっていたので何もしていなかったの。戦時中、女中は使ってはいけないとなって、みんな帰されてしまって。

お米を担いでっていう時は仕事を休んでそっちに行って。そういう風なことをしてね。

そうしないと、妹は小さい、弟は小さい、母は奥様だから何もできない。となると私が動かなきゃしょうがなかったんです。

私18歳で結婚しました 笑。

主人は父の研究室の大学院生だったんです。

父の研究室の助教授が「Y君にはN子さんをどうだろう」って。そしたら父としても申し分のない青年だったというね。

夫は23歳、まだ学生で翌年に卒業を控えてたんですけれどね、結婚しちゃった。

お互いに共通の知人もたくさんありまして。
主人は三男で、私の妹や弟も小さいし。父にとっては、早くその妹や弟たちの後ろ盾になってくれる人も欲しかったんだろうと思います。

昭和20年の5月です。結婚式をあげましてね。家は、食料もない時期に若い二人で生活を始めてもということで私の実家で一緒に住んでたんです。

朝鮮からの引き揚げ

朝鮮から内地への引き揚げは昭和20年11月でした。

最初は、ワーっとみんなが京城駅に殺到して、電車に窓から入るようなことがあったんですけど、とにかく軍隊がまず引き揚げさせられて、警察も引き揚げてしまったんです。

やっぱり警察は朝鮮人を取り締まっていたから恨みの種にもなっているし、国家の組織ですからね。

そうするとあと残っているのは民間人でしょ。

だから結局、京城帝大の人たちや総督府の文官が中心になって、引き揚げのいろんな業務に当って、そして落ち着いた後、地域的に順番に引き揚げるようになったんです。

主人は引き揚げと同時に急遽卒業という形になりました。

主人は医学部を出ただけで、まだ医師免許もないんですけど、一応知識があるということで、その引き揚げ列車で医療業務に当たって。帰りは内地から引き揚げてきた朝鮮人が列車に乗り込んで。京城と釜山との間を往復してましてね。

引き揚げの時は、とにかく何かしら荷物を背中に背負ってトランクを胸に下げて両手に荷物を持って、母が持てない分、一生懸命、頑張って持ちましたけどね。家族7人全員そろって引き揚げました。

私の主人は残って医療業務に当たっていたので、その年の年末に引き揚げてきました。釜山に主人の両親がいましたんでね。

私たちはまだ恵まれた引き揚げの仕方をしています。

長男がお腹にいたので、貨物でなく客車に乗れました。

北朝鮮や満州のようにロシア兵に襲われるというようなこともなかったし。治安は行き届いていましたね。

引き揚げ後、父は全国の大学を回って教え子の就職先を見つけていました。

父自身は、医学専門学校、その後、奈良県立医大に呼ばれて教授になって、70歳ぐらいまで勤めていたと思います。

辞めると同時に脳出血で倒れましてね。9年間寝たきりの生活になったんです。

ご両親からもらったもの、子どもや孫に残したいもの

写真館での家族写真

いろんな思い出の中で、終戦ですべてを失ってからの両親の姿というのが、私にとってはほんとに大きな教訓となったなと思っています。

母が、今みたいに介護という知識もなく、いろんな衛生用品も少ない中で必死になって頑張って、9年間父の介護を続けました。
父は80歳で自宅で亡くなりました。

その最後の母のすごい頑張り、頑張っていながらそれでいて母にとっては孫ですけど、私たちの子どもが行くと、可愛がって大事にしてくれて。子ども達もほんとみんなが「おばあちゃま、おばあちゃま」と懐いていました。

それが両親から受けた大きな教訓だったと思います。

主人が大阪市大退職後、70歳の時、脳梗塞で倒れたんです。母の頑張りを見てきたので、母よりもっともっと恵まれた状態でやるんだから、私は母の倍は頑張らなくちゃいけないと思って。17年間、9年の2倍にちょっと足りなかったけれど、何とか介護できました。

主人にしてみたら、まだ不足も多かったでしょうけど。でも施設に入れたりしないで、自宅で最後まで好きな本を読んで過ごせたというのは、良かったんじゃないかなと。

思いがけなくインタビューをしていただいたお陰で、90年間を省みることができましてね、ほんとありがたいなと。

はっきり言って最初は気が重かったんですよ 笑。

何か出来事があるかしらと思ったんですけれど、一つ糸がほぐれてくるとダーッと流れてきました。

朝鮮での暮らしは、楽しかったときはほんとに良かった。もう二度とあんな楽しい豊かなときは戻っては来ないでしょうけど。

結局、やっぱり最後は両親のところにたどり着いて。素晴らしい人達に育ててもらって、良い環境の中に置かれていて幸せだったなと。

私の受けたものを子どもたちに伝えてるかなと思ったら、何にも伝えていないことに気がついてね。

せめて言葉だけでも伝えたいなと、こないだからそんなことを思ってるんです。

主人へ感謝の気持ちと共に、三人の子どもたちが愛おしいと思いました。幸せを何かの形で子どもや孫やひ孫に伝えてやりたいなぁとそんな風に思います。