「あなたにとっての家族とは?」
様々な「家族観」に触れることで自分の「家族観」を見つけていく家族観バトン。
おばあちゃんっこで育った甘えん坊でわがままな少年は、中学生で板前になることを決め、15歳で家を出ました。板前になった少年は、時には実家で魚を捌いたり煮付けを作ったりすることも。
でも30歳で転機が訪れます。
15年の厳しくも大好きだった板前人生にきっぱり決別をし、全く違う道に進んだ少年。
父になって、自分で家族を養うようになって思うこと。
それは、親からもらったものは到底返せるものではない、ということ。
わがまま放題でたくさん怒られ、おばあちゃんに甘えていた少年は、一人の父、そして両親の子どもとして、親や家族と向き合っています。
目次
プロフィール
名前:田中伸悟
生年月日:1973年1月14日
職業:株式会社 エコリング SNG 代表
株式会社エコリング 取締役副社長
出身地:兵庫県
社長の幼少期は?「田舎の貧乏人のぼんぼんです」
僕は母方の方の初孫なんです。
父方はたくさんいるんですけど、母方にとっては初めて。
おばあちゃんからすると初孫なので、超甘やかされて育ちました。
ほんとに好き勝手生きてたと思います。誰よりも可愛がられて、金持ちではないんですけど、田舎の貧乏人のぼんぼんです 笑。
生まれは兵庫県の小野市、母は社(やしろ)という田舎です。
よくある田舎の家庭です。どこの家庭も僕らの時代ですから3人兄弟は当たり前。僕も3人兄弟、その中の一番最初です。
僕が生まれてから、下に続々と孫ができましてね。
毎年誰かが続いていくぐらいの。言ったらその中の僕が頂点を握っていたので。かなり可愛がってもらったんだと思います、小さい頃は特にね。
少なからず教育もあったと思うんですけど、可愛がられていたからといって、何でも好きなものを買ってもらえたとかそういうのはなかったです。
ずっと欲しいと思い続けられるようなものだったら買ってあげるという感じ。そんなめちゃくちゃ裕福なわけではないんですけどね。
それでもやっぱり父親の方のおばあちゃんとか母親の方のおばあちゃんには、色々買ってもらってましたね。
僕、おばあちゃんっ子なんですよ。
父親の方のおじいちゃんは会ってもないので知らないですし、母親の方は一応おじいちゃんが生きている時に僕が生まれてるので知ってはいるんですけど。どっちかというとおばあちゃんっ子だったんで、すごく甘えん坊だったと思います。
父親の方は本家で僕の実家なんで、おばあちゃんも一緒に住んでいました。
父は長男ではないんですけど、兄弟が近所に家を立てて外に出ていったので、父が実家を継いでいます。
母親はもちろんそうなんですけど、おばあちゃんに育ててもらったって言えるぐらいの幼少期でした。
めちゃくちゃ長生きで106歳ぐらいまで生きたんですけど、死ぬ直前ぐらいまで「伸悟お金あるか?」みたいなことをずっと言われてましたからね。
「ご飯食べれてるか」とか。こっちとしては「いやいやそこそこ真面目に仕事してるよ!」みたいなね 笑。
「もうええ大人やで」っていうのはありましたけど、そんなことはあまり言わずに「今大丈夫やで、また困ったら言うわな」みたいな感じで。
ある意味おばあちゃんの口癖のようになってたんでしょうね。それぐらいおばあちゃんに頼ってる部分も大きいでしょうし、ほんとにおばあちゃん子だったと思います。
僕が家を出るまでになりますが、おばあちゃんもずっと一緒に住んでいました。
僕は中学校を出てからすぐに働いてるので、家を出るのは早かったんですけど、それでも実家に帰った時にはおばあちゃんの部屋まで必ず顔を見せに行っていましたよ。
そんな家庭で、ほんと、のほほんのんびりと自由にさせてもらっていました。好き勝手ばっかり、わがままだったと思います 笑。
母は何かしら仕事をしていましたけど、どこかに勤めて朝から晩まで帰ってこないというわけではなかったです。
母親って怒るじゃないですか。
めちゃくちゃ怒られてたんですよ、僕。めちゃくちゃ怒られてて。たぶん一番甘やかされてますけど一番怒られてると思います。
あらゆることで怒られていたんです。当然勉強もしませんでしたし、遊びに行っても帰ってこないし、親のいうことなんか当たり前に聞かないし。
下が二人いるんですけど、喧嘩しても結局長男が怒られるじゃないですか。そういういろんなものも含めて常に怒られてました。
家出ていけだのクソだのほんとによく怒られてました。それぐらいわがまま過ぎたんだと思いますね。
それでそういう時は助けを求めておばあちゃんのところに行くんですよね 笑。
たまに家を追い出された時も、おばあちゃんが鍵を開けてくれて入ったりとか。おばあちゃんの部屋から外に逃げて行ったりとか。そんなことばっかりしてましたね。
ほんとに影から支えてくれているというか。孫なので、母親とは見方が違うじゃないですか。今もそうだと思います。
僕の子どもに対しても、嫁(母親)がごちゃごちゃ言っても、おばあちゃんからだと「もうそんなん言わんでいいやんか」ってなったり。「あんた散々言うてたやないか」って思いますけど 笑。
親も立ち位置が変わると、直のことは言えるけど、一つ間を挟むと直ではなかなか言わないですし、逆にかわいそうに見えたりそういう風になるので。当たり前のことなのかなとは思いますけど。
嫁と嫁のお母さんと同居で嫁姑問題とは無縁
うちの実家は元々近くて、今住んでいるところからは車で小一時間ぐらい。なのであんまり「帰った」っていう感覚がなくて。
僕、長男のくせに跡を継いでいないので、別に家を建ててそこに住んでるんですけど、昨日の午前中も父と母が僕の家の方に来ていました。
うちの1番下の子が来年中学生なので、それのお祝いをしに、ちょうど昨日が縁起の良い日だからということで来てくれて。次に行くところがあるということだったので、少し喋って帰りましたけど。
家と家との距離が近いのもあって、僕らもちょっと寄ろうかとか、そろそろ顔出し行こうかなとかはあるんですけど、実家が遠方にある方みたいに、子どもの夏休みに一週間ほど帰るとかそういうのは全然ないです。いつでも帰ることができるので余計そうなんだと思うんですけど。
実家には父母と妹夫婦が住んでいて、妹夫婦のところには子どもがいないんですけど、旦那さんが入ってくれています。旦那さんには上に長男がいるので、最初は外で住んでたんですけど、僕も帰らないし「実家に住めばいいやん、嫁姑になるよりいいでしょ」ということで。
僕が今住んでいる家も、嫁のお母さんが独りで住んでたんで家を建てる時に一部屋作って、一緒に住んでいます。
嫁姑で揉められるぐらいならと思って、まぁ親子喧嘩もありますけど 笑。お互い言いやすいから余計そうなるんでしょうね。僕には全然何も言ってこないですけど、逆に「親子喧嘩は外でやってくれ」って言ってるぐらい。
でもこれが逆で嫁姑になってると、僕も辛い。今よりたぶんもっと辛いでしょうし、喧嘩の度合いがちょっと違うと思うんです。
そう考えると、娘が実家にいるというか、親と一緒に住んでいる方がうまくいくんじゃないかなと僕は思っていて。
だからうちはお義母さんに来てもらって住んでいます。独りでいいなら独りでよかったんですけど、独りでいても寂しいじゃないですか。
向こうも古い人なので、最初は、「長男の家に、そんなんよう行かれへんわ」という感じでしたけど、「そんなんじゃないねん」と。それこそ嫁の調子が悪くなったりした時に助けてくれたら助かるから来て、とお願いして来てもらいました。
妹夫婦の方は、そこも親子ですから親子喧嘩はあるかもしれないですけど。旦那さんは僕の今の立場よりちょっとしんどいかもしれない。僕は家を建てて来てもらってますけど、旦那さんは入っていってるのでね。
そんな感じでなんとかあんまり大きな揉め事もなくやってます。
親戚と思っていたおっちゃん、実は…
実家は自営で鉄工所をやってます。家の横に工場(こうば)があって。工場(こうじょう)でなく工場(こうば)というサイズ感ですね。父が親戚のおっちゃんと一緒にやってます。
僕生まれた時からずっとあります。
ただおじいちゃんは戦争で亡くなってるんで、その前までにどれだけやってきたかまではよく知らないです。
親戚のおっちゃんと二人でずっとやってきて、今その工場をおっちゃんのところの息子が跡継ぎみたいな感じでやっています。ちょうど僕と同い年の息子なんですけどね。
うちの父親の方は兄弟が多いんですけど、その親戚のおっちゃんというのが、血が繋がっていなくて。
僕もあんまり詳しいことをきっちり聞いたわけではないんですけど、おばあちゃんが親のない子をもらったそうで。
それで育てた子がその親戚のおっちゃんなんです。
その人、つまりおっちゃんに工場を任せるという流れでやっています。うちの親父は実家なのでそこを一緒にやってるんですけど、それ以外の兄弟、お兄ちゃんお姉ちゃんとかはもう外に出ています。
たぶんおばあちゃんがそういうポジションを作ってきたんだと思います。あんまり根掘り葉掘り聞かなかったし、親父にも僕的にはあんまりよく聞いてないんですけど。
聞きにくいというか、「なんか不思議やな」ぐらいにしか思ってなかったんです。それこそ、実家の横が工場ですから毎日おっちゃんもいて毎日顔を合わしていて、よく遊んでもらっていたんです。
で、そこの息子が僕とまた同じ年に生まれてるのですごく仲良かったんですよ。だから、なんとなく余計なことを言ってその仲を壊すのも嫌だなというのもあって。
でもちらほら聞いたりしたことを繋ぐとそんな感じです。だからそれ以上はもう聞かないでおこうと。聞いてしまって、僕の感情が出てきてしまったらあんまり良くないと思ったんです。
やっぱりおばあちゃんが色々考えて、してきたことに対して否定的な感情が出るのは嫌だなって。
おっちゃんは小さい頃に養子になっていたみたいで、僕が知ってる時にはもう親戚のおっちゃんだったんです。ずっとそう思ってましたから。だから僕がそのことを知ったのはかなり後です。
全部を一回で直接聞いたわけではないので、なんとなくぼんやりとこうなのかな、こうなのかなという感じで、こちらも大人になりつつあったので全然違和感もなかったです。
まだまだ感情で動いている若い時にこれを聞いていたら、「なんやそれ、誰やねん」みたいに、きちっと突き詰めないと納得できない、というようなことになっていたかもしれないですけどね。今はそういうのは全然ないです。
もうあえて探って何かがしたいというのはないですし、それこそおばあちゃんが決めたことに何ら反論もないですし、とりあえずうまいこといっているうちはいいかな、という感じです。
それこそ今なんかその同級生の子が一生懸命そこをやっているので。僕は逆に継ごうと思ったら継げる立ち位置にいるにも関わらず跡を継いでいないので、文句を言う筋合いもないでしょうし、向こうも言われる筋合いもないでしょうから。
15歳、板前になると決める
鉄工所は、僕が知っている限りは父とおじちゃんの二人でずっとやってきています。
父が僕に跡を継いでほしいというのはないんじゃないかな。おっちゃんが社長という立ち位置でやってきていますから、うちの親父から僕を跡継ぎにってことはなかっただろうし、僕自身もそんな鉄臭いところで仕事しようなんて鼻から思っていなかったのでね。
それでも工場は遊び場にもなってましたし、中学校の時も、休みの日に手伝って小遣い稼ぎとかしていました。どろどろになりながらね。
鉄工所が嫌いというわけではなく、単純に僕はもう板前になりたかったんです。だから中学校は出たけど高校も行く気がなかった。中学校を出てそのまま就職、板前生活をしようと思っていました。
一応ちゃんと京都の祇園で8年ぐらい修行もしてるんですよ。今はもう全然握ってないですけどね。
一昨年ぐらいにやっと板前人生を今のリサイクル人生が超えました、中学校を出てから30歳手前まで、約15年板前をやっていました。今はリサイクル業をやりだして、その15年を数年前に超えて、というところです。
去年初めて、僕が板前を辞めた時の自分の包丁を実家で見ました。もう握らないでおこうと思って実家に置いておいたんです。それを帰った時に、
「あんたいつまで包丁置いとくのん、もういらんのん」と言われて。
「いやいや置いてといてよ」
「じゃあ持って帰りよ」
「いやいやこれはちょっと持って帰られへん」
という問答があって 笑。それで久々に見てみようと思ってね、15、6年ぶりに見ました。
そしたら不思議ですよね、一切錆びてなかったんです。
一応ちゃんと手入れをしてしまってたんですけど全然錆びてなかった。もうそのまますぐ使えるぐらいの感じでした。
今のうちの代表と出会って、エコリングをスタートしようと決めた時に、やっぱり腹をくくらないとと思ったんです。15年もやってきた商売を辞めるわけですから、相当な腹をくくらないとなと。ちょっとやってダメだったらまた板前に戻ろうみたいな感覚はまずいというのがありました。
うちの代表と出会ってから3年ぐらいずっと遊んでもらってたんです。4つ歳上でほんとに仲良く遊んでもらっている先輩という感じでした。
僕、板前の時は人の巡り合わせってあんまりいいイメージを持っていなかったんです。すごい職人さんがいっぱいいて、仕事上ではみんなすごく可愛がってくれたんですけどね。
全然違う異業種の人と出会ったので、「すごい、この人とやってたらおもしろいかな、飯も食わしてくれそうやしな」というのがあって、じゃあ一緒にというタイミングで、腹をくくって包丁を置きました。
板前になると決めた時、親は反対ではないですけど、「高校ぐらいは出とけ」という話でした。でもそれこそほんとバカだったので、工業高校ぐらいしか行けるところがなかったんです。勉強もしてませんし。
3年間が無駄になるってわけじゃないですけど、そのまま3年間通って卒業した時も板前になりたかったとしたら、その工業高校で勉強したことは意味があるのかと思ったんですよ。
工業高校で学ぶような本格的なことを学んだところで、そっちに行くつもりが全然なかったので。中学2年の時にもう決めてたんですよ、板前になるって。やりたいことが見つかるのが早かったんですよね。
だから母親の手伝いは、唯一料理だけはしていました。料理はめちゃくちゃ手伝ってましたね。皿洗いもすすんでやっていましたし、ご飯を作るのもすごく手伝ってました。好きだったんですよね。その頃からずっと言っていたので、そんなに極端に反対されるというのはなかったです。
歳を重ねてからの高卒と中卒はぜんぜん違うじゃないですか。もちろん大学まで出た方がいいのかもしれないですけど、親として心配だったのは、学歴という不安はやっぱりあったみたいです。
でも俺はそこじゃない、と。後から入ってくる高卒大卒の人たちより先に就職したかったんです。職人の世界ですから。腕をどれだけ磨けるかっていう単純な発想だったんですよね、僕自身が。だから、早く入りたい、早く料理を作る技術を上げたい、とそこばかりを考えていました。
振る舞うと言うと大げさですが、年に1、2回実家に帰った時には、晩ごはんなんかを作りました。たまに自分の包丁を持って帰って、魚を買ってきて捌いたりとか。そういうのは家だと普段はやりにくいですよね。刺し身にしたり煮付けにしたり。
僕の練習にもなるんですよ。職場ではなかなか触らせてもらえないものもあったんで、若い時なんかは特に。
「長男の田中伸悟さんは30歳まで苦労する」
転職の時は全然相談せず、後から報告ぐらいでした。「仕事変えたから」って。びっくりしてました。でもびっくりはしてたんですけど、そこまでじゃなかった。
後から聞いたんですが、僕の実家に毎年1年に1回だけ占い師さんみたいな人が来るんです。
その人に毎年、「この長男の田中伸悟さんは30歳まで苦労する」とずっと言われ続けていたみたいで。僕じゃなく母が、なんですけど。
僕はそのおばちゃんなんか知りませんし、会ったこともないんですけど、ずっとずっと毎年毎年言われていたらしく、母親が僕の名前を勝手に変えようとしていたぐらい「この子は苦労する」とずっと言われ続けていて。
案の定そこそこ苦労はしてたんですけど、板前なんて苦労をするのが当たり前だと思って入ってる部分もありますし。でもまぁすごく苦労する部分があったのも本当です。
「名前を変えなさい」「30までは苦労する、30を超えたら人生が変わりますよ」とずっと言われていたらしくて、母も気がかりだったんでしょうね。勝手に僕の名前を変えようとしたぐらいですから、本人に許可もなくね。急に電話でもかかってきて、「あんた名前明日からこうやから」と言われても困るじゃないですか 笑。でもまぁそんな感じだったらしいです。
そういうことがあった中で、たまたまエコリングに変えたタイミングが30歳だったんです。結果論的にそうなったので、「へええ」とはなりますけど、ほんとか嘘か、僕は会ったことがないので分からないですけどね。
でもそれを聞いて、たしかに仕事が変われば出会う人が今までとは全然違う職種の人になったので、ほんと人生変わりました。
極端な言い方をすると、板前の時はすごく新鮮なものを扱っていたのが、今は中古品を扱ってますから。何ならみんながいらないというような物を扱ってるわけなので。
だからすごく真逆の世界というのは感じながらやってきました。
一生かかっても返せないでしょう。だから返す気もないです。
長男でもあるし、一番迷惑をかけてる分、僕のことがたぶん未だに一番心配なんだと思います。
妹は実家なので当然目の届くところにずっといますし、一番下の弟はすごく大人しいまじめな子で、高校を出てけっこう良い企業さんに就職してそのままずっとです。
だからあんまり不安要素がないんですけど、言いながらまだ独身なのでそこが一番ネックかもしれないですけど。全体的な部分でいくと、僕のことが未だに不安なんだと思います。
今は、それこそ嫁さんのお母さんと一緒に住んだり、子どもができて、家を建ててとやっていますけど、「あの子ほんまに家のローン全部払えるんやろか」とかね。たぶんそういういろんな心配をしてると思います 笑。
大丈夫と言っていても親なんで、常に心配する。
逆に変な話ですけど、心配させることも親孝行かなと思いますし、場合によっては甘えていくことも親孝行かなと。
自分が親になったから余計にそう思うんですけど、子どもを見てたら腹が立つこともいっぱいありますし、お兄ちゃんになんか特に男の子なんで「どうにかしろよ、自分でやれよ」って思いますね。
逆に女の子には「なんでもやったるがな」って思う感じですけど 笑。
それでも最終的には、親として対応をしないといけない、責任をきちっと果たさないといけないなというのはあって、そういうものが僕にもだいぶ芽生えています。
それが未だに僕の親には親であるんじゃないのかな、というのは感じますね。
そしてそういうのはたぶんなくならないんだと思います。
孫ができたら可愛いでしょうし。特にお母さんなんかは母性本能がくすぐられるでしょうし。そうしたらまた張り切って元気になって、そういう元気があるから心配できる。
心配してくれるのは元気な証拠なんだと思います。これが入院したり、あっちが痛いこっちが痛いなんて言っていたら、なかなか人の心配をしている場合じゃなくなってくると思うんです。
いろいろな面で反対もしてたと思うんですけど、それでも最終的には好きなことをやらせてもらっていますし、困った時にはいろいろ助けてもらったりもして、親って偉大ですよね。
一生かかっても返せないでしょう。だから返す気もないです。もらい続けてることの方が僕はいいんじゃないかなと思っていて、その分子どもにしたらいいんじゃないかな。
子どもが親に返すなんてちょっと不可能です。僕の考えですけど「まず無理やわ」と思っています。
それであれば、めいっぱい甘えたり、元気なうちはまだ心配もかけてもいいでしょうし、いっそ迷惑をかけてもいいかもしれない、というぐらいの気持ちでいいのかもしれないです。
実際はかけないほうがいいんでしょうけど 笑。
それだけしてもらった分、僕が今度は子どもに迷惑をかけられてもちゃんと対応のできる親父になっていかないといけない。
ここで返してしまうと、下にもできないんじゃないかなと思います。もらってきたものを下に返していく、そんな感じを今の僕は感じています。
上っ面というとおかしいですけど、ご飯に連れていったりとか旅行に行っておいでとか、そんなことぐらいはできますけど、でもそれで返せるようなことってまずないと。そんなことではないと思っていて。
だから、できることだけ、できる時にできることだけはきちっとしておけば十分だと思いますし、すべて返すことは不可能なので、その分子ども達にめいっぱい父親としてできることをやる、もうそれしかないんじゃないかなと、そんな風に思っています。
出産したことで、より家族のつながりや関わり合い方に興味をもつように。
母とお世話になった祖母それぞれに、母の日、誕生日、敬老の日の贈り物を10年以上続けているので、近年ネタ切れ感が否定できません。
良いものがあればぜひ教えてください。