「先祖がいるからこそ自分たちがいる」祖父の名字を継いだ社長の親孝行

家族写真 40代にとっての家族

「あなたにとっての家族とは?」
様々な「家族観」に触れることで自分の「家族観」を見つけていく家族観バトン

ひいおじいちゃんひいおばあちゃんとひ孫が会う機会が減ってきている昨今、「家族」の話を引き継いでいくことが難しくなってきています。

時代の変化だと言いつつも、「守るべきものは守っていきたい」と話す佐々木さん。
仕事がうまくいかず「自分を変えたい」と思っていたタイミングで、お祖父さんの名字を継承し現在の佐々木姓になりました。
「何がしたいか分からず」もがいていた時期、お祖父さんから言われてきたこと、親孝行とはどうすることか、たっぷりお話いただきました。

目次

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
最新情報をお届けします。

プロフィール

名前:佐々木 雅尚
生年月日:昭和50年8月7日
職業:株式会社イレイト 代表取締役
出身地:広島県

転勤族だった幼少期

父はごく普通のサラリーマンで、母はたまにパートに出るぐらいでほとんど専業主婦でした。
兄弟は自分が長男で、2つ下に弟、5つ下と一回り下の妹が2人います。
今は兄弟みんな独立して、父と母は年金でゆっくり自由気ままに暮らしています。

兄妹とはよく連絡を取り合っているので仲はいいと思います。小さい頃は自分で言うのもあれですけど、長男なので割としっかりしていた方だと思いますね。

父親の仕事の関係で転勤族でした。小学校で3回、中学校で2回転勤しています。友達ができても仲良くなったらすぐバイバイという感じだったので、世間で言う幼馴染がいません。
転勤は県外ばかりで、生まれたのは広島、幼稚園のころはペルーに居たこともありました。

小学校は埼玉、兵庫、鹿児島2回です。だから同窓会も行ったことがないし、今友達と言ったら高校や大学時代のときの友達しかいないです。

家族のために一つの会社で仕事を全うした父

夫婦と小さい息子

父は一つの会社を勤め上げた人です。

安定収入、良い大学を出て、いい会社に務めるというのが父親の持論でした。
たしか自分で学費を払いながら良い高校を出て、広島大学を出て、三井の大きな会社に勤めたので、中エリートというんでしょうか。

昔の人なので、学校の参加日に来るとかはまずなかったです。運動会にちょこっと顔を出すぐらいでした。でも土日休みなので、日曜日はよく色々なところに連れていってもらっていました。

今はそういう考えも薄くなっているとは思いますが、昭和の日本のサラリーマンです。月曜から金曜まで頑張って働いて土日は家のことをするという感じですね。

自分とは違うので、見ていて父のそういう生き方は、我慢が多かったんだろうなと思います。

大きい会社で、仕事自体は楽しくても大企業ゆえの、転勤が多かったり年功序列の体制による縛りだったり、そういう苦労が少なからずあったようです。

母には早く定年したいと言っていたみたいですが、家族のために定年まで辞めることなく勤め上げてくれました。

自分はどちらかというと自分のやりたいことをしたいというタイプなので、父のようにはいかないかなと思っていますね。自分のやりたいことを仕事にして自分でやるという感じなので、そういう意味で父とは考え方が違うかなと。

基本的に父親は何も言わない人でした。今まで、小さいときも勉強しろと言われたことがないし、何しろとも言われたことがない。

自分がずっと勉強ばかりしてきて、良い高校に行って良い大学に行って良い会社に就職したけど、勉強だけじゃないよ、というのがたぶん父親なりにあったのかなと思います。

家族を大事にするということ、自分も子どもに対してなるべく一緒にいる、というところは父から学んだことですね。家族に対してすごく考えてくれているというのはあります。

ただ父のように我慢をしながら仕事をするというのは、自分には合わなくて。

父親の背中を見て、自分は全国区の会社にいましたから、大手の会社でのし上がっていこうと思っていました。

それで上り詰めていこうと思ってましたけど、結局会社の親会社が買収されて役員がごろっと変わってしまって、古い風潮で年功序列だとか、意見が通らないとかになってしまって。

ここで俺は我慢してやっていく、ということは考えなかったですね。

何がしたいか分からない、けど何かしたかった

大学を卒業してからは、先物取引とか証券とかいわゆる金融系に就職しました。
大学に入ってから、ちゃらんぽらんしていたので受かる会社がそこしかなかったというのが現実です。正直どこでも良かった。

とにかく何がしたいかというのも分からないまま大学に入って、どういう会社で働きたいかというのもなくて。父親は、必ず大学は出とけ、大学ぐらいは、という考え方でしたし。

それで一応大学を出て、何がしたいかなと思った時に見たのが、「世界の商品を扱う金融会社です」という募集記事。すごいですよね。「世界の商品ってなんだろう」と思って、世界の、世界に向けての仕事が将来できればな、という形で入ったんです。

でも世界に向けてとは、単なる小豆とか大豆とか世界にある物の商いだった、そういう感じでした 笑。

ただ世界を見たいなと思ったんですけどね、世界にいくわけじゃないんですよ。世界でやっている穀物を扱った商品の金融業。違うなと思いました。

そこに1年ちょっといました。この会社にいたら人として終わるかなと思って。

親には事後報告でした。会社を辞めたけれど自分はやっぱり親に迷惑をかけたくない気持ちが強かったんです。

辞めた時は京都にいたので、母は「実家に帰ってゆっくり考えれば」と言ってくれたんですけど、実家にいたら甘えそうでね。一週間ぐらい帰省して、裸一貫で大学のときに住み慣れた福岡に行きました。仕事を辞めるとなった時、その時も父親は何も言わなかったですね。

思い出のある福岡で何かしたいというただ漠然な思いで、とりあえず福岡に行って、自分でアパートを探しました。

最初はアルバイトを一日3件とかかけもちしていました。何かしたいけどその何かというのが分からず、当時流行った節水の会社の代理店なんかもやっていました。

最初はうまくいっていて一人雇っていたんですけど、だんだん給料が払えなくなってしまって。まだまだ甘かったです。

それで給料を払うために夜に高級クラブで働きだしました。
代理店は1年ぐらいで終わって、その後昼間は飲食店でアルバイト、夜は高級クラブ、といった生活をしていました。睡眠は1日3時間なんていう毎日を2年半ぐらいやっていました。

夜の世界は衝撃でした。そこで出会う人たちを見て、自分もその人たちみたいに普通に飲めるぐらいにはなりたいと思って。人生観変わりましたね。夜は楽しかったです。

夜を辞めたきっかけは、当時日本で一番大きかった人材派遣の会社に転職したことです。

年功序列は関係ない、やったらやった分だけ稼げるというキャッチフレーズだったんで、自分がどこまでいけるか試したくて、そこに転職しました。

そのタイミングで昼間一本でやろうと思って夜を辞めたんです。のし上がってやるぞと思ってました。

そしたら本当に能力主義の会社で、その会社に入ってすぐに、平成14年の春ごろ介護事業を立ち上げるぞと言い出して、介護行けと言われて。
それは嫌でしたよ、最初は。「えーっ」って。でも嫌だったら大阪に行けと言われて、それも嫌だなと。

で、じゃあやりますという流れです。最初は嫌々ながらやったのは記憶として覚えてます。

でもいざ入ってみると、ゼロから立ち上げるというやりがいがあって。それに現場に入ってみると、高齢者の「ありがとう」っていう言葉が、今までのありがとうの中で一番心に滲みました。

人間の「ありがとう」という感謝の言葉って、色々あるんですけど、高齢者が自分でできないお風呂に入れたとき、「ありがとう」という言葉が本当に伝わるんですよね。

「いやぁ、これはほんとにすごいありがとうだな」と思って、同じ仕事をするなら喜ばれる仕事、将来性のある仕事をしようと思ったんです。

そうすると介護ってまさにそうなんですよね。サービスで入って色々喜ばれてお金がもらえて、それでいて高齢者はどんどん増えていく。「これはちょっと徹底的に学んだらいいんじゃないかな」と。それでやり続けてきた感じです。

自分の中に感じた「本家」の血筋

母親と息子2人

両親には仕事のことは相談はしなかったです。

もともと「のし上がっていこう」というのはあったと思うんですけど、人に指図されるのが嫌なんだと思います。

中学校のときはサッカー部のキャプテンをやったり生徒会にも入っていましたし、高校でもキャプテンではないですけどサッカー部の宴会部長的な感じでした。

その中でどうやったら人が集まるとかみんなが喜ぶかとかを考える癖がついていきました。
そういう部分も父とは真逆だなと思います。

うちの母方の祖父が2年前に亡くなったんですけど、祖父がよく言っていたのは佐々木家は昔問屋さんで、どちらかというと商売の家系ということ。

自分はどちらかというと母方の方に似てると言われていて、見た目も、地元を歩くと近所のおばあちゃんとかからよく、ひいおじいちゃんにそっくりと言われていました。

ひいおじいちゃんが当時そういった商い家さんを本家という形でされていたというのは聞いていて、そういうところも似ていると言われるます。だからどちらかというとそういう血が入っているんだろうなと。
本家なので、その土地や人々のトップに立つ家柄。だから自分もキャプテンをやったり今会社を経営していたり、上に立つことが多いのかなと、そういう血が流れているのかなと感じています。

弟は独立してうちの会社を手伝っていますけど、どちらかというと工場で働くとかそういうタイプで全く父親似です。会社起こすとか何かやりたいというのはないみたいですね。

築150年以上の実家、受け継がれてきた家族史

三人兄妹

自分のルーツを知る環境は昔から周りにありました。

墓もちゃんとあるし、実家では、特におじいさんは、夜は必ず仏壇に手を合わせろとか言っていたので、自分らも小さい頃は毎日ちゃんと手を合わせたりとか。必ず墓に行けとも言われていました。

「ここは山から牛で木を運んできて作った家だ」とかそういうようなことも言っていました。実家の家がたぶん150年ぐらいは経っている家なんです。
「岡田屋」という屋号を使っていて、これは憶測ですが、家の裏に城跡がありそこから一番近いのがうちなので、守りというかお世話などをしていたかもしれません。

だから色々残ってました。蔵は去年潰してしまいましたけど、参勤交代で使う駕籠や、昔の屏風とか。参勤交代のものは地元の高校に寄贈していたと思います。

おそらく戦後の農地改良で、土地とかを全部没収されてるんで、それがなければ土地もいっぱいあったんじゃないかなと。

だから祖父からはよく「ちゃんとした家系だから恥のない行いをしろ」とか言われてましたけどね、小さい頃は。あんまり気にしてなかったですけど 笑。

祖父が家系図というのはよく書いてくれていました。ただ、江戸時代ぐらいかな、何代目かのその先が分からん、と言っていました。昔は墓もいっぱいあったようですけど、戦後に土地が没収されているので、先祖の墓がどこに行ったのか分からないと。4代5代先しか記録が残っていないのかなと思います。お寺も燃えたか燃やされたかで、その先の部分が残っていないと言っていました。

自分の奥さんの方はルーツに無関心だったんですけど、最近奥さんのお母さんがイギリス人とのクオーターということが分かって。うちの息子が自分のルーツに興味を持っています。イギリスの血が息子にも入っていることになる。彼は英語が好きなので、じゃあイギリスに行って調べてこいよと言ってあります。

26歳で祖父の名字を継承

当たり前のようにパートナーがいて子どもがいて、親に元気な姿を見せる、当たり前の姿を見せることが親孝行かなと思います。

ちゃんと独立して、自分の子どもを養って生活している姿を見せること、当たり前なことなんですけど、この当たり前を見せることが親孝行かなと思いますね。

親より先に死ぬことが親不孝って言いますよね。それが一番親不孝者だと言われるので、とにかく元気でいること、健康でいること、家族がいること、というのがそこが一番。

親より先に死ぬことは絶対に許さんというのは言われていました。それは祖父も言っていましたね。「どんな理由があってもそこはあってはならん」と言っていました。

うちの母親の妹か弟かが生まれてすぐに亡くなってるんです。生まれて一週間ぐらいかな。家系図には名前だけ書かれていました。

実は父の姓は橋本なんです。150年の家は母方の実家です。

本当は子どもが母親一人しかいないので、父が養子に入るはずだったんですけど、父も長男だったので母が嫁いでいきました。

だからうちの父親は橋本という家系なんです。

当然母も嫁いでいるので橋本姓で、自分も26歳まではずっと橋本だったんです。
でも母方の祖父が80歳になったときかな、この世で一つ心残りがあると言ったんです。

佐々木の姓が途絶えることが、自分には一番この世での未練だ、ってね。

だから自分ら兄妹4人のうちで誰か継いでくれないか、というのがあったんです。
普通は長男じゃなくて次男か誰かが継ぐのかなと思いますけど、俺がやろうかという感じで。

ちょうどなんかね、人生もあんまり良くなかったんです。

浪人して進学して、新卒で就職して辞めて。何がしたいんだろうとか、いろいろ面白くねえなと思っていた時期で、「何がしたいか分かんないし、とりあえず自分を変えたい」というのがあって。

名前が変わったら生まれ変わるような気がして。だから「じゃあ俺が継ごうか」という感じでした。

今思えば、名前を変えてから急に、仕事に対する意識というか、とにかく色んなものに興味をもって仕事をするという、そういうのが取り憑いたような感じになりました。
姓名判断でも名前との相性が良いみたいでしたし。

結局、祖父は80歳から毎年「もうわしは死ぬ、わしは死ぬ」とか言いながら100歳まで生きました。

でも広島で土砂崩れが起きなければ、もう少し生きたと思います。うちの家が山の下なので、大雨が降るとアラートが鳴って避難勧告が出ちゃうので、その度に避難していて。
でもその行ったり来たりするのが、母親がもうちょっと連れて行けないというので施設に預けるようになったんです。

祖父は施設が嫌で嫌で、「飯は食わん」とかなんとか言ってすぐ亡くなりました。

自分の住み慣れた家を離れるのが嫌だったんでしょうね。「こんなところで暮らすぐらいなら」という考え方で、施設に入ってからは生きる気力を失くしていました。

それがなければあと10年ぐらいは生きていたんでしょうね。

うちは子どもが3人いてみんな男の子なので安心です。やっぱりうちとしては先祖を継いでいっているという思いがあるので、そういうところでいうと跡取りが3人いることになりますし、そういった部分では、やっぱり頑張って生きているということが親孝行かなと思います。

先祖を敬う、先祖がいるからこそ自分たちがいる

家族写真

親子だからこそ難しいことも結構ありますけど、自分たちが親に迷惑をかけないというよりも元気で暮らしているというのが大切だと思うんです。

日本人として今までずっと生きてきて、当たり前のように先祖は大事にしなきゃいけないし、そこから学ぶことというのは活かされてると思います。

親より先に死んだらいけないというのは、命のところにも繋がるんじゃないかと。続いていかないとと思っているんです。

先祖を敬う、先祖がいるからこそ自分たちがいる。その考え方は持っとかなきゃいけないと思います。そしてそれを子どもたちにも教えていかなきゃいけない。

今の世の中、なかなか先祖に対しての、お墓参りとかの機会もだんだん少なくなってきていますよね。

自分が小さい頃は、本家ということもあって実家で葬式とか何回忌とかをやっていました。近所の方とかが手伝いにきて、家で葬式や奉納をやると。そういう時代でした。家に、みんなが喪服姿で来て、お坊さんを呼んでお経を上げてもらう。それが済んだら昼ごはんが振る舞われて、とそういうところを見てきているので。

今はそういうことはしないですよね。田舎に行けば若干は残っているかなとは思いますけどもうほとんどないですよね。

そういった意味では、そういう時代が変わってきている中でさらに自分の先祖がどうだったかとか、お墓参りは必ずしなきゃいけないとか、そういうことが大事な気がします。

幸い自分たちの子どもは、お盆になると「墓参りにいかんといけないんじゃない」と自分たちから言ってくれます。そういうのはありがたいです。

我々親とだけでなく、おじいちゃんと接するということが良かったなと思います。

逆に孫が生まれたからじーさんも長生きできたんだと思います。
もう死ぬ、もう死ぬって、たしかに手術も何回かして入院を繰り返してたんですけど。佐々木の姓を自分が継いで結婚して孫ができて、そこから急に元気になりました。自分の存在を知ってもらうためにはまだまだ死ねんっていうのがあったんじゃないかな。

今の日本に失われた部分かなと思います。なかなか時代という部分なのでしょうがないですけど。でも守るべきものは守っていかないといけない、そう思います。