親の愛情を受けて育っていると、大人になって困難に出会っても自分で乗り越えられる

函館の風景写真 70代にとっての家族

「あなたにとっての家族とは?」
様々な「家族観」に触れることで自分の「家族観」を見つけていく家族観バトン。

今回は、私の高校の担任の先生だったおすみさんにインタビューをさせていただきました!
このバトンは20代30代の方が多いのですが、おすみさんは70代。
人生経験豊富で、やはり20代30代とは視点が違います。

家族とは何か、老いてから自分が楽しく生きるには。
国際結婚や戸籍法のこと、親と子どもの関係など、当事者でなければ知らないままであろうお話は考えさせられます。

プロフィール

名前:おすみさん
年齢:71歳(2021年1月現在)
職業:元教師、傾聴ボランティア代表
出身:大阪府堺市

どんな家庭で育ちましたか。

女の子1歳の写真

生まれも育ちも大阪です。一人っ子で寂しかったので、兄妹がほしかったですね。
よくハンバーグやうどんすきを食べに出かけたり、遊園地に連れて行ったりしてくれていました。

裕福ではなかったけど、大事に育てられました。

子ども時代は戦後まもなくで、バラック小屋のようなところに住んでボロを着ている友達も居ました。
まだ珍しかった電話やテレビも割と早く家に来たし、まあ中流ぐらいの家庭だったかな。

父も母も大学を出ていて教養はあったと思います。本もよく読んでいましたね。

父親は学徒出陣で戦争に行きました。極寒の満州に居た話をしてくれたり、戦歌をよく歌っていました。戦争に負けることが分かっていたのに、海軍特攻隊で死ぬ訓練を受けていたようです。
周りが死んでいった中、たまたま自分は生きて帰ってきたというのは凄くショッキングな経験ですよね。

あんまり勤め人に向いてないようで、商売をしてみたり、いろいろ職業が変わっていました。覚えているのは、入浴剤のようなものを作って売ろうとしていたこと。だけど時代が早すぎたんでしょうね、全然売れなかったみたいです 笑。

晩年は細々と貿易の仕事をしていました。
父は長男だったので、母親や姉家族の面倒を見て同居していた時期もありました。

人がいいので、借金の保証人になったみたいで、学校から帰ってくると家中ペタペタと差し押さえの紙が貼られていた記憶があります。

でも母親が社交的でしっかり者だったので、そういうのも何とかなっていたんじゃないでしょうか。

家で塾をして勉強を教えたりしていました。
夫婦喧嘩で父に殴られて目を腫らしていたこともありました。晩年は病院ボランティアなど地域で活躍したりもしていました。

母娘のぶつかり合いもありました。でも母のほうが口達者で強いので、私は自分の部屋に閉じ籠るといった感じの反抗しかできませんでした。
母と一緒に買い物したり、旅行したりもしました。なので仲が悪いわけじゃないんですよ。

結婚について

最初の夫はイギリス人で、語学学校で出会いました。
そんなに英語ができるわけじゃないのに通訳のアルバイトを頼まれたので、ちょっと英会話を習っておこうかなと。

そしたらちょうど彼がイギリスから講師として来たところで。すぐイギリスに戻るつもりだったのに、私と結婚することになって、40数年経っても未だに日本にいます 笑。

日本が気に入ったみたいです。出会いは不思議ですね。

国際結婚だったので、最初は周りから反対されました。
どこの馬の骨か分からない、文化も違うから難しいって。でも私は自分が決めたことは譲らないタイプなので 笑。

国際結婚の手続きは、本当にややこしかったです。
戸籍って日本独特の管理システムなんです。外国人には戸籍がないので、日本の書類を英訳してイギリスに送ったりしました。

相手が重婚でないかとかチェックしなきゃいけないので、イギリス領事館に「この二人が結婚しますけど、誰か文句を言う人いませんか」という張紙をして一定期間経ったら認めますみたいな。

日本の役人も国際結婚に慣れていないので、役所や入国管理事務所や家庭裁判所など、いろいろ面倒な手続きだらけでした。

日本の家族とは日本の神社で、イギリスの家族とはイギリスの教会で結婚式をしました。
私は初めてのイギリスで、家族に会うのも初めてでした。

イギリスのクリスマスは寒かったけど、暖かく受け入れられました。

家族について

結婚して初めて実家を出ました。
国際結婚なので、数年よく考えてから子どもを作ることにしました。

息子と娘が生まれましたが、当時の日本の国籍法は父系主義で、日本で日本人の母親から生まれても、父親の国籍しか継承できませんでした。

なので子どもたちはイギリス人としてパスポートを申請し、日本では外国人登録をしなければなりませんでした。

私の戸籍には、結婚した事実が書いてあるだけ。

外国人である夫には戸籍がないので、名字もそのまま。家族だけど、一人ひとりバラバラでした。家族の証明が難しかったのですが、絆は強く仲の良い家族でした。

「国際結婚を考える会」というグループに初期メンバーで参加しました。国籍法とか、在留問題とか、いろいろな法律的なことを勉強したり、家族同士で交流したりしました。

会としても国会に働きかけたりしたんですが、国籍法が1985年に改正され、父親だけじゃなく母親の国籍も継承できることになりました。晴れて子どもたちも母国である日本人になりました。

夫のイギリス姓をカタカナにして戸籍を作り、子どもたちと私はそれぞれ単独戸籍にしました。日本は二重国籍を認めていないので、その後、子どもたちは日本国籍を選択しました。

孫ができると私の母親は喜んで世話を焼いたり、可愛がってくれていました。

でも要らないものを次々と送ってくれるんですよね。服とかおもちゃとか私と趣味が合わないんです 笑。私は感謝するどころか文句ばっかり言ってました。

日本に住んでいたので、私の家族とはよく行き来していました。
昔は、海外航空券も高かったし、国際電話も高くて、イギリスとはもっぱら手紙のやりとりでしたね。

誕生日とかクリスマス、お正月とか、そういう特別な行事は大切にしていました。子どもに対しても親や家族に対しても、贈り物をして楽しませるのが好きなんです。

子どもがほんとに小さいときは、夫が協力的というか、一緒になって子育てをした感じです。

友達は未だに文句を言っていますね。
「夫が全然子どもの面倒見てくれへんかった!家のことも何もせえへん」とか。
フルタイムで仕事をしていても家事も子育ても女の人任せ、そういう時代でしたね。

うちは夫が自分から進んでおむつも替えるし、子どもが夜中に起きたら起きて面倒を見てくれたりしてました。だから子育てに苦労はなかったです。良い父親だったと思います。子どもをとても可愛がっていたし。

夫は日本語が分からないので、どこに行くにも、子どもも一緒に家族で出かけていました。10年間はラブラブでしたね 笑。

夫はスキーをしたことがなかったんですが、スキーが趣味の私によく付き合ってくれて。家族連れであちこちスキーに行きました。

夫の職場の大学へもよく遊びに行きました。夏休みのプールが私たち家族の貸し切り状態で。

小さい時に親の愛情を受けて育っていると、大人になって困難に出会っても自分で乗り越える力になると思います。

まだ幼い娘を抱いていたとき、四十肩のように肩が上がらなくなって。病院に行って検査したら、難病の関節リウマチだと診断されました。

自己免疫異常で軟骨を破壊しちゃって、骨が変形したり、寝たきりになる人もいるようです。朝のこわばりや、倦怠感、全身の関節という関節が動かしづらくなって。

最初は夫も一緒に病院巡りをしてくれていました。お医者さんからは原因不明で治らない、と言われ落ち込みました。
「神さんに祈るしかない」というお医者さんもいました。

でも夫は治ると言うんです。ストレスがよくないようで、調子のいい時もあるし、見た目は変わらないので怠けているように見えたみたいです。

「死にたい」と訴えたのは、死にたいほど辛い気持ちを夫に分かってほしいということだったのに。

でも理解してもらえなかったんです。

日本人なら空気を読むことができるけど、イギリス人には言葉で説明が必要なわけです。いつまで経っても日本語が下手なので、それが耳に障ったり。いちいち英語で説明するのがもう面倒くさくなって。

子どものことを考えたら、もっと自分の気持ちを伝える努力をすべきだったと思います。自分のエゴで離婚して、罪のない子どもを巻き込んだことは反省しています。

離婚した後の家族について

100日記念の男の子の写真

息子は、環境が変わったせいもあり不登校になってしまいました。
仕事から疲れて帰ると、ゲームをしてて。余裕がないのでつい怒鳴ってしまったり。

中高一貫校で高校はそのまま進学できたんですけど、中退して大検を受けました。親元を離れたほうがいいだろうということで宮崎の大学に進学しました。大学も結局中退してしまいましたが。

そのまま宮崎で仕事もして、結婚もして、4人娘の父親になりました。

すごくイクメンで娘たちを可愛がっていました。
子どもが4人もいるので当然といえば当然ですが、出勤前に洗濯や家事も手伝い、仕事から帰ってもおむつを替えたり、ご飯もゆっくり食べていられないようでした。寝る前には子どもたちに絵本を読み聞かせていて、自分が疲れて先に寝てしまったり。

優しいけど頼りない息子なので、勝気な嫁が切り盛りしてうまくバランスがとれているかと思っていました。
ところが、話し合いも無しに一方的に離婚を迫られ、親権も向こうに取られたみたいで。

息子は離婚したことをすぐには私たちに言えなくて、しばらく知りませんでした。
息子は愛する家族も仕事も家も全部失って、うつ状態で、もう一時は自殺するんじゃないかと、それぐらい落ち込んでいて心配していました。

親として見守るしかできませんでしたが、最近ようやく元気になってきたので一安心。教会で救われたみたいです。洗礼を受けて正に一度死んで生まれ変わったそうです。

息子が進学で出て行ってからは娘との二人暮らしがしばらく続きました。私は仕事中心で、娘のことはほったらかしでしたね。

娘は地元の大学卒業後、仕事の関係で親元を離れ東京に移りました。苦労もしたみたいですが、周りの人たちにも可愛がってもらえる得な性格なので。頑張って、それなりに活躍している様子を陰ながら応援してました。

その後、結婚して海外を転々とする生活で、今はベルギーに住んでいます。
海外からでも、しょっちゅう帰ってきてたんですが、去年、コロナで渡航が自由にできなくなってしまいました。

友達も居ない、英語は何とか通じるけど…という状況、コロナでロックダウンの中、ベルギーで初めての出産をしました。

私も手伝いに行く予定でしたが、飛行機が飛ばなくなって行けなくなってしまいました。娘は夫と協力して子育ても頑張っているようです。わが娘ながら逞しいなと感心しています。

私より元気だった母は76歳で亡くなりました。

悪性リンパ腫で入退院を繰り返していたんですけど、抗がん剤治療でだんだん弱っていったという感じです。
高齢になってからの治療はしない方が良かったんじゃないか、却って死期を早めたんじゃないかとも思います。

髪の毛が無くなってもお洒落なカツラをつけてお化粧して小ぎれいにしていました。

山の中の小さな学校で教師をしていたので、危篤だと連絡が来て病院に駆けつけた時には間に合わなくて。
仕事を休むと他のスタッフに迷惑がかかるので、お葬式の一日しか休みませんでした。

父は一人で2年ほど頑張っていましたが、81歳で亡くなりました。

父が弱っていた時も一人置いて、仕事でイギリスに行かないといけなくて。介護らしい介護を私、あんまりしてないんです。

ある日、電話をしても通じないので心配で見に行ったら、「しんどい」と座り込んでいて動けない状態でした。まだ話はできていて、ヘビースモーカーの父は救急車に乗り込む前に煙草を一服。病院で意識がなくなり、静かに息を引き取りました。心不全だったみたいです。

タイミングよく私が行けたから良かったものの、老人一人暮らしの難しいところです。

子ども達が家を出ていき、初めての一人暮らしになり、両親も亡くなって天涯孤独みたいな気持ちになっていた時期もありました。

今は再婚して夫と二人暮らしです。精神的にも経済的にも楽になりました。お互いに支えあって。

今の夫は典型的な昭和の日本男子で、価値観が全然違いますね。私は男女平等は当然、という考え方なので。些細な事でキレて、ちゃぶ台返しをされます。実際ちゃぶ台はないので、その辺の物を投げつけて 笑。

でも以前は男子厨房に入らずだったのが、今や洗い物をするようになりました。

洗い物をしてくれたとき、私が嬉しそうな顔をしていたそうで、「美味しいご飯を作ってくれるから、自分は洗い物担当」と言ってくれています。

本人は、自分は努力をしてすごく変わったって言っています 笑。まあ喧嘩する相手がいるのはありがたいことかとも思います。

夫は、奥さんを子宮頸がんで亡くして自暴自棄になった時代があったみたいで。今が人生で一番幸せだと口癖のように言っています。一緒に旅行やカラオケで老後を楽しんでいます。

娘はしょっちゅう第2の実家へ帰ってきています。
東京で落ち合って一緒にハワイ旅行したこともあります。
娘の結婚式がフランスであったんですが、夫も骨折した私の付き添いで来てくれました。実の父親は来なかったのに。

旅行を兼ねて何度か息子家族の居る宮崎まで一緒にドライブしたり、夫は子ども好きなので私の孫たちのことも可愛がってくれました。

夫の父親が軍隊帰りで荒れていて、母親を取られ父親に殴らたことが、70歳過ぎても心の傷として残っているみたいです。

夫は3人兄弟の長男で、娘さんが3人います。でも夫の家族は複雑な事情もあるみたいで、私の家族ほど交流がありません。

元夫のイギリスの家族とは「離婚しても家族のままだから」と言われ、30年間交流が続いています。
といっても、姉家族と誕生日やクリスマスカードとプレゼントのやりとり。最近はもっぱらSNSやメールですが。

夫が去年、直腸がんで11時間もの大手術と入院生活を経験したんですが、私にとって初めての介護体験でしたね。

メッセージ

子どもの権利を守るべきだと思います。
日本でも離婚が珍しくなくなってきました。日本の場合はだいたい母親が親権をとって、元夫を憎んでるから子どもには会わせないというのが多いみたいで。

離婚や再婚も多くなって複雑だけど、子どもにとってはどちらの親も自分のルーツです。

離婚しても、うちの子どもたちは再婚した父親とも自由に会っていました。家に泊りに行ったり、一緒に旅行したり。
でも最近息子から聞いたのですが、当時父親に会いに行く時、私は不機嫌な顔をしてたそうです。当時は恨んでいたので。今はもう恨んでいませんけど。

息子は、自分の子どもたちとの面会交流調停を家裁に申し立てていたようです。
でも元嫁が、「父親の悪口を言え」と子どもに言っている、そんなような話を息子は裁判所で聞いたそうです。

大好きなパパに会いたいけど、それを会いたいって言えないなんて。子どもが可哀そうです。

離婚した相手の悪口を子どもの前で言うべきではないと思います。悪いのは相手だ、と責任転嫁し、憎いから会わせない。でも親に会うのは子どもの権利です。

日本の場合、結婚しているときは共同親権ですが、離婚すると単独親権になってしまう。海外だと離婚しても共同親権だそうです。
親権は別にしても、面会交流権は認めるべきです。離婚は大人の都合で、子どもが持つ「親に会う権利」を守らないといけないと思います。

息子は子どもたちに会うことを諦めて、調停を取り下げたようです。子どもたちが大きくなって自分の意志で会いに来るまでは。幼いころに父親から受けた愛情は子どもたちの心の奥に残っているはずです。

これまで辛い別れを経験しました。いい出会いがありました。辛い体験を何とか乗り越えられたのは、それなりに愛情をかけて自由に育ててくれた両親のお陰だと思います。直接、感謝の言葉はかけられなかったけど、ありがとう。

家族とやりたいこと

函館の風景写真

可愛い孫たちに会いたいです。

息子達6人大家族で泊りに来たのは、3年前のお正月が最後です。その後、留守にする元嫁に頼まれて息子と子どもたちの食事の世話をしに行きました。それからというもの、孫娘たちに会えていません。

息子家族に誕生日などにはプレゼントを段ボールいっぱい送ってたんです。金銭的な援助もしてきました。

ところが離婚してからは元嫁に受取拒否され、手紙も返送されてきました。一番上の子が中学に入学した時に、お祝い金なら受け取ってくれるかなと思って現金書留を送りましたが、それも送り返してきました。

去年、ベルギーで生まれた娘のほうの孫にはまだ一度も会えないまま。まだまだコロナが収まりそうにないので今年も会えるかどうか心配です。写真やビデオ電話でしか顔を見ていません。

私の友達の中には、子どもが結婚してなかったり、結婚しても子どもがいなかったりして、孫がいる私が羨ましいと言っています。

いい息子や娘が生まれてきてくれたこと、そして孫に恵まれたことは幸せです。でも孫に実際に会えるようになりたいものです。